この記事は、開塾から15年目を機に、なぜ塾屋を創ったのかという経緯のなかで、まだどこにも明かしていない裏事情を記念寄稿として書いたものです
まずは、登場人物と、事件前の状況説明を
登場人物の紹介です(^^♪
塾長、当時23歳。愛知県で9教室くらいあった小さな塾の教室長
当時の塾のボス。塾長と表現しなかったのは、この会社が他の事業もやっていて、ボスは塾のことはノータッチ(指導歴もなし)なので、塾長とは呼ばず社長と呼んでいました ※顔はイメージです
私の母。こんな容姿端麗ではないのですが・・・
当時の生徒を代表してAさんとしておきます
2006年10月に事件が起きますが
2006年10月に事件が起きますが、事件前の状況を書いておきます
私が勤務するA学園(仮称)は、愛知県内で9教室くらいある塾です。といっても、地域の公民館やコミュニティーセンターで会議室などを借りて塾をやっている教室も半数以上ありました。塾屋のような店舗を持つ教室が少しあり、残りは公民館など借りて営業している教室です。私は大府市、豊田市にある2つの公民館を借りた教室の教室長を任されて1年半が経っていました
2006年10月、事件が起きました!
2006年10月、私が24歳の誕生日を迎えたころ、私の勤務する塾(仮称 A学園とする)では週に1回、本部の一宮市内の教室で会議がありました
その会議に出席するのは、私、先輩上司(男性、女性がお一人)、ボスの4人です
まだそのころはWeb会議なんて概念もなかったので、車で片道1時間半くらいかけて会議に行き、急いで教室のある大府・豊田に向かったものです
その会議冒頭、ボスが言いました
えー・・・塾を閉めます
私は
はぁ?(; ・`д・´)
何言ってんだ、こいつは?!
と思ったんですが、今思えば、いつ潰れてもおかしくない状況でした
注:塾や教育のことを全く知らないボスだったので、入社後、他の社員の先輩もボスの考え方に不満タラタラでした。なので、口は悪いのは1年半の蓄積です
当時のA学園の経営は・・・大赤字!
当時あった9教室のうち、生徒数が減少している教室が7つ。生徒が増えている教室が2つでした
その増えている2つが、私の教室2つでした
といっても、公民館を借りているので、規模も小さくて、私が引き継いだ1年半前が
大府の教室 5名
豊田の教室 4名
という、超低空飛行の状態だったので、そこからそれぞれ1年でそれぞれ20~30名くらいに増やしていました
しかし、店舗を持つ教室の生徒数が毎月減っていく状況・・・それはそうです
今考えたら、ただの「個別指導」で、A学園としての方針は0、各社員が自由にやっている状態でした。だから、私は自由に塾に縛られることなくいろいろやれたんですけどね・・・
その少ない生徒数にも関わらず、主な支出である人件費は、当然、私を含め社員3名分かかってくるわけです。他にもアルバイト講師の費用もあります・・・
私と先輩社員の3人は、塾の経営がヤバイというのは自覚しており、各教室の収支を出したりして
「いや、赤字ってほどではないだろう。むしろ黒字になっているはずだ。だったらうちらの給料を上げてもらおうぜ!」という交渉をしようとしていたくらいです
なのに、なぜ「閉める」のか・・・
そこには私たちの知らなかった事実があったんです
それもボスから聞きました
うちの主力部門である〇〇がよくないので、ここ1年、塾部門から私の給料が出ているんだ
という驚愕の事実!!
会社にはもう1つ別の事業があり、そこは大赤字だとは知っていましたが
塾とは別だから気にするなと散々、ボスから言われていたんです
別のくせに・・・給料は塾の利益からもらっている・・・という(泣)
ボスは、当時おそらく40代。黒のベンツを乗り、いかにも「社長ですよ」という格好で出社してきます
でも、上記した通り、塾に関しては全くの素人で、会議をしていても
で、この夏に生徒は何人増えるの?売上いくら行くの?
という話を振ってくるだけで、夏期講習の内容についても、広告戦略についても何も言わない人なんです。(ということは、夏期講習は各自。広告戦略がない=チラシなど0)HPなど無く、私が勝手に塾ブログを立ち上げて運営していました
結局は、ボスの存在分の赤字というわけです
特に私の2教室については店舗の教室と違い、教室代(家賃代)が激安なので、2つの教室で私の給料を差し引いてもちゃんと余りが出るような状態でした
その翌週の会議で、2つめの事件(爆弾)が!
塾を閉める宣言をしたボス
翌週の会議で、さらに爆弾発言!!!!
塾は1月末で閉めます
私は入社以来、もっとも大きな声で
はぁ?????????( ゚Д゚)
と叫びました。もちろん、会議後です(笑)
無能なボスは、1月末で閉めるというのが、どれほどダメな行為か分かっていませんでした
すかさず私は言いました
え?じゃぁ、今いる中3はどうなるんですか?
(当時は高校生の指導はなかった)
その返答は、無能を通り越してバ〇としか言いようがありませんでした
はぁ?そんなの知らんわ。
もし、電話がかかってきたら、オレが『じゃぁ、うちの塾の経営をおたくが代わってくれるんですか?』って言ってやるよ
と・・・ボスがドヤ顔してたので、キレるを通り越して恐怖さえ感じました
(今これを書いていても怒りで震えますね)
おそらく、3月末で閉めることもできたはずですが、冬期講習のお金をもらって塾を閉めたかったんでしょう・・・
24歳の私が取った行動とは!!!
そんな会議の中で誕生日を迎えました
24歳になったことよりも
今いる中3はどうしたらいいんだ?
それをどう説明したらいいんだ?
オレはどうする?2月から・・・
悩みの中でいっぱいでした
ここで出した1つの結論が
3月まで、自分で公民館を借りて大府・豊田の教室で中3を見る!その後、4月になったら就職活動するか、教採(教員採用試験)を受けるか考える
というものでした
よし!これなら中3も最後まで指導できるぞ!
そう思って先輩にも伝えました
しかし!ここで、ボスが!!!!!!!!!!第3の事件!
このことをボスに伝えたところ
坪内くん、それはダメだよ
と言われました
何を言っているんだ、こいつは!
と心の中で思いましたが声に出さずに我慢して理由を聞くと
今のA学園の生徒は、うちの顧客なんだよ。だから、勝手に顧客を持っていくなんてのはできないよ。なので、今いる生徒を買い取ってもらうならいいよ。
??買い取り??
そのときは、混乱で「そうですか」とその場を離れましたが、その後
『今いる生徒の情報や権利をA学園から買わないといけない』ということが理解できました!
買い取らないと、今の生徒を2・3月指導できなくなるのか!!!
今になって思えば、大赤字で塾を閉めるボス
おそらく、別事業の赤字もあって、会社自体、倒産の危機だと思うんです(事実、すぐ倒産しました)
そこで金になるもの(チャンス)があれば、飛びつこうとしたんだと思います
金額を聞いてみたんです
すると
知り合いの塾で聞いたら(絶対そんな知り合いいないんだけど)
生徒の平均月謝×人数ってのが妥当なんだって
と言いました
計算にしてウン十万円!!!
安月給の私には、給料〇か月分やねん!という金額でした
困った私は、親に相談することに・・・
この一連の流れ、ウン十万を払う件を親に相談しました
すると、まず、祖母が喜んでいました
『あーこれで、コウスケ(塾長)は学校の先生になるんかー良かった良かった』と
でも、母親は
そのウン十万で、あとから揉めないか?
という心配をしていました
これまで散々、無能なボスの言動をグチで話していたので、もしかしたら、お金を払った後、3月くらいにまた追加請求して来たり、近くに塾を出して邪魔したりするんじゃないのか・・・と。
そこで、ある場所に向かうことに・・・
生まれて初めて『弁護士さん』に相談することに・・・
無料相談ではありますが
人生で初めて弁護士さんのところに親子で相談に行きました
ボスが作成してきた契約書に不備はないのか
その後、揉めないために追記すべき事項はないのか
・・・ボスは会社の社長、対する私は入社2年目、24歳の若造
契約書をテキトーに書いてサインさせて、後から・・・って作戦を立ててきそうな気がしたんです
(実際には、そんな策士みたいなことができるボスではないので、見よう見まねで書いた契約書が抜け穴だらけだと困るのは私の方で、結局はボスを全く信用していないだけです)
書類のチェックも終えて、現金とともに契約を交わしました
ウン十万は親に借りることにしました。(後日、3月くらいに、いただいた月謝で返済)
それが12月のことでした
契約には、準備もあるので「1月から」私の生徒になることとなりました
(12月で私は退社しました)
まず、何をしたかといえば・・・
12月はちょうど、塾の懇談の時期です
この懇談の前に、1枚の用紙を全ご家庭に配布していました
文面は覚えていませんが、こんな内容です。
このたび、A学園から引き継ぎ、私(ツボウチ)が自分で塾を行うことになりました。生徒や保護者の方には、特に大きな変化はありません。指導するのは私のままです
その後、懇談でオブラートを中身の味が何だったか忘れるくらいに包みまくって事情を説明しまして、結果、誰一人辞めることなく中3の指導をできることになりました
こうして、2007年1月から「塾屋」スタート!
いちおう塾名は公民館とかで書かないといけないなと思い、考えた結果「塾屋」に決めまして・・・
あれ?
なんかおかしいですよね?
3月までで終わる話になってるのに・・・塾屋、15年(2021年現在)続いてるやん(笑)
その真相をお伝えします
今思えば、伝え方がまずかった??
上記のような計画で進んでいたのに
なぜまだ塾屋があるのか、続いているのか・・・3月で終わるんじゃなかったのか??
それは
私のミスから起きたのです
先ほどの私が書いた書面で「このたび、A学園から引き継ぎ、私がやります」と書いたのですが
『3月まではやります』とは書かなかったんです
書かなかったというか、バタバタしていて「書き忘れた」というのが真実です
この書き忘れにより、1月の時点で大きな異変が起きるのです・・・
1月~3月で生徒数が急増!!!
なんと、辞めるつもりの3月までに、生徒数が急増したんです
もちろん、チラシも何もしていません
その第1波は、12月の懇談です
A学園ではなく、1月から私が引き継いで塾を行います
そう言うと
え?!やった!!それなら、うちの下の子もお願いします!正直、今のままなら辞めようと思っていたんですが、先生がご自分でやられるなら安心です
と、懇談するたびに「じゃぁ、下の子も通わせていいですか?」という声をいただき・・・
この声を無下に断れなくなってしまったんです
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こう書くと「お前、嫌々塾をやっていたのか!!?」と怒られそうですが、そうではなくて
心のどこかで
・自分の思い通りにやらせてもらえること
・自分が生徒を見て、保護者の方と一緒に向き合えること
これを3月以降もずっと続けたいなという想いがあったんだと思います
こうして、胸を張って『塾屋』が誕生したわけです
3月で辞めるつもりだった「塾屋(仮)」は、4月以降、正式に「私の塾 塾屋」として営業することになりました
翌、2008年には一念発起して『塾屋 前林教室』を内装・外装工事をして完成し、今に至っています!
最後に、これを書いた感想を
これを書こうと決意して、文を進めていくうちに、いろいろな想い・人物の顔が浮かびました
今、こうして塾を続けてこられたのも、元はと言えば、あのボス率いるA学園があったからです
今は、その塾も会社も存在しませんが、その当時の生徒や保護者の方、講師がこれを読んでくれたら嬉しいです(ぜひ、ご連絡ください)
また、この裏事情を、今通っている塾生や保護者の方に知ってもらうことで
『人生が変わる瞬間は、偶然ばかり』だということ
『人生、思い通りにはならないけど、なった境遇で向き合う』ことが大事なんだと気づいてほしいです
塾でもたびたび紹介している「クランボルツ理論」
これは私にもあてはまっているわけです
毎日、塾で楽しそうに過ごしていて、楽しそうにタイムラインを配信している塾長ですが、小さい頃は学校の先生になるのが夢で、愛教大に入った・・・でも、就職先は塾で・・・2年後に何と自分で塾をやっている・・・そしてそれがみんなのおかげで今もまだやれている
もし、あのとき、塾を3月で閉めていたら、ここでブログは書いていませんし、皆さんにお会いすることもなかったでしょう。おそらく、どこかで学校の先生をしていたんだと思います
以上、私が塾屋を創めた、本当の事情でした
長文でしたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました(^^♪
塾屋 塾長 坪内康将